現役を引退したじじいだよ、あだ名はロン、まだまだ元気なので気張って書いているよ

魅惑の国トルコ(4)(2019/03/23)

2023/02/10
 
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トルコを後にする

 

アンカラ滞在もちょうど3か月になりました。12月末にはシュメルバンクに評価レポートを提出してやっと任務完了しました。ほっとしました。日本ではちょうど年末年始の休みになっていましたが、予定通り帰途につきました。

 

ベイルートの街は

 

現在のベイルート

 

帰りはアンカラからレバノンの首都ベイルートへ向かい、ここで往路と同じ各駅停車の世界一周便に乗り換えました。ベイルートはその後戦火に巻き込まれて大きく破壊されましたが、当時は商業と金融の中心地でまだ大変綺麗な街で中東のスイスと言われていたくらいだったそうです。背後の山並みではスキーが出来て、美しい海岸では海水浴が出来るといった具合で素晴らしいところだったようです。

 

トルコリラを米ドルに

 

今回の旅で問題でしたのは長い現地滞在費をシュメルバンクからトルコ通貨で頂いたことです。僅かでしたが使いきれなかったこのお金を日本に持ち帰っても、当時はなかなか簡単には日本円に交換出来ないと言われましたので、米ドルかイギリスポンドに交換しようと思いやっとベイルート空港トランジット待合エリア内の売店で米ドルに交換することが出来ました。

 

米ドルを円に

 

その後テヘラン、ニューデリー、バンコック、香港、羽田と給油しながらやっと帰国出来ました。交換した米ドルは香港の空港内の売店で日本円に交換しました。またお土産品なども香港で買いました。今では国内にいて前もって海外旅行先のお土産を購入し配達してくれるサービスがあるようですね。買って持ち帰ったワインやウイスキーなどで友人たちと一杯やりました。

 

イラン石油化学プロジェクト

 

暫くしてイランで石油採掘時に随伴するガスを原料とする大規模な石油化学プロジェクトが日本とイランとの共同事業として行われることになりました。ほとんど全ての石油化学原料を輸入している日本にとっては期待されるプロジェクトでした。
筆者はこのプロジェクトには全く関係がありませんでした。もちろん日本政府も紆余曲折がありましたが最終的には全面的に支援することなりました。

 

建設予定地は

 

建設予定地はイランのペルシャ湾の奥にあるバンダルシャプール地区(現在はバンダル・イマム・ホメイニと呼ぶ)に原油採掘時に随伴するガスを原料に日本とイランによる合弁事業として一大石油化学工場の建設が始まりました。

 

イラン革命が起こる

 

およそ80パーセント以上出来上がったところで1979年1月にはイラン革命が起こりました。工事は中断を余儀なくされて工事関係者の多くは一時日本へ帰国するか安全な周辺国へ退避せざるを得ませんでした。1979年4月にはイラン・イスラム共和国樹立宣言が行われました。

 

工事は再開されたが

 

混乱の中でもイラン側はプロジェクトの推進を強く求めてきました。日本側の反対を押し切る形でプロジェクトは進められましたが、完成に近づいたところで今度はイラン・イラク戦争が始まりました。建設サイトも何度も爆撃に遭いました。日本側の工事関係者はテヘランに避難せざるを得ませんでした。

 

戦争は激しくなる

 

現在のテヘラン市街 wikipediaより

 

その後イラン・イラク戦争は激しくなり背後にいる応援団も加わり複雑な形で結局1980年から1988年まで間に休戦なども含めながら続きました。両国が相互に両国の都市を攻撃し合うなか、1985年3月17日には48時間の猶予期限以降にイラン上空を飛ぶ航空機は、無差別に攻撃するとサッダーム・フセイン大統領が突如宣言しました。

 

48時間の通告

 

イラン滞在中の外国人はそれぞれ自国の救援機でイランを脱出していきましたが、日本人についてはそうはなりませんでした。在イラン日本大使館は救援機を派遣した各国に交渉しましたが、自国民の救出で手一杯だということで希望者全てを乗せてもらうことは到底かなわず、いまだ200名以上のイラン在外日本人が全く脱出方法が見つからずに取り残されることになっていました。また日本航空に要請すると自社の組合員の安全が保障できないとの理由で拒否されたとのことです。

 

在イランの日本大使館とトルコ大使館の努力で

 

在イラン日本大使館の野村大使が最後に頼んだのが個人的にも親交のある在イラントルコ大使館のイスメット・ビルセル大使でした。野村大使の要請を受けたピルセル大使は自国の人たちの救援に来る救援機の増派を本国に要請しました。

 

救援機の到着

 

日本人を救出したトルコ航空DC-10

 

救援機2機にまず日本人を優先して搭乗させ自国民はその後にしたといいます。そして搭乗できなかったトルコの人たち約500名は陸路自動車で自国へ脱出させました。
日本人215名を乗せた飛行機は無事離陸してイスタンブールに向いました。イランとの国境を通過した時に機長の「トルコへようこそ」の機内放送を聞いた日本人乗客は歓声と大きな拍手のあとは緊張が一機に取れて涙を流す人も多かったといいます。

 

森永堯氏の努力も

 

またこの日本人救出には当時トルコ駐在の伊藤忠商事の森永堯氏が直接オザルトルコ首相に直接依頼して首相の決断で決定されたと言います。陰には多くの人の助けがあったのですね。

 

エルトゥールル号遭難事件が

 

なぜ多くの自国民の生命を危険に晒してまで外国人である日本人を優先して救出したのでしょうか。トルコの人たちの心の中にはエルトゥールル号の遭難事件のことがありました。
1890年(明治23年)に日本を親善訪問した帰りに和歌山県串本町沖で遭難して沈没したエルトゥールル号の乗組員救助を明治政府以下関係者全員が一丸となって進め、結局生存者69名を翌年イスタンブールまで送り届けました。

 

恩義を忘れないトルコ人

 

この時の恩義返しをしようとトルコの人たちは立ち上がったと言います。なんと心温まる話でしょうか。この話は多くの日本人の心を打ちました。

 

トルコ大地震では

 

その後日本とトルコは第1次世界大戦の一時期を除き友好関係が続きますが、特に死者1万7千人余りを出した1999年のイズミット大地震では日本からは義援金の他に救援隊や救援物資が送られました。
串本町の記念碑では

エルトゥールル号遭難殉難将士慰霊碑

 

和歌山県串本町ではその後記念碑が建てられて5年ごとに慰霊祭が行われています。

 

エルトゥールル号125周年追悼式典

 

また最近では2015年6月に串本町文化センタでエルトゥールル号125周年追悼式典が行われました。この式典には彬子女王殿下のご臨席を頂き、さらにトルコ国民大議会議長、トルコ海軍総司令、海上自衛隊幕僚長、駐日トルコ共和国全権大使など各方面から多くの関係者のご来場を頂き執り行われました。その後も折に触れて民間べースではいろいろな交流が行われています。

 

まとめ

 

人と人との交流と同じように国同士のお付き合いも相互の信頼に基づくものは代々語り継がれて永く続くものですね。アンカラのホテル「ジャーンパレス」のレストランのボーイ長はエルトゥールル号遭難の話をしながら筆者に大切なことを教えてくれたと今でも感謝しています。
本稿「魅惑の国トルコ」はこれで終わります。
最後までご覧いただきまして有難うございます。

 



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