魅惑の国トルコ(3)(2019/03/17)
目次
ボーイ長の話は続きます
ボーイ長とはいろんな話をしました。その中でも彼が熱を込めて話したのは百年以上も前にオスマン帝国海軍のエルトゥールル号遭難のことでした。
エルトゥールル号の日本訪問
1887年小松宮殿下夫妻のイスタンブール訪問の返礼として、オスマントルコ帝国皇帝アブデュルハミト2世の命を受けたエルトゥールル号はイスタンブールを出港しました。1889年7月、明治22年のことでした。途中各地で歓迎を受けながら11か月かけて1890年6月に横浜港に入港しました。
日本でも大きな歓迎を受けました。エルトゥールル号の司令官オスマン・パシャを特使とする一行は明治天皇にトルコ皇帝の親書を奉呈して同年9月に帰途につきました。
エルトゥールル号の遭難
和歌山県の串本町紀伊大島の樫野埼に沖に差し掛かった時に、折からの台風に巻き込まれ岩礁に衝突して大破しました。軍艦はやがて沈没し海中に投げ出された乗組員650名余のうち救出されたのは僅かに69名でした。
住民総出で救助作業
崖の上には樫野埼灯台があり、崖の下にたどり着いた10数名が崖を這い上り灯台に救助を求めました。互いに言葉が通じず苦労がありましたが、樫野の住民は総出で救助をして台風のために十分な貯えの無かった食料品を差し出して介抱に当たりました。
救出者の送り届け
遭難の話は明治政府にも伝えられて、政府は軍艦を派遣して救助されたトルコ軍人を神戸の病院まで運び治療しました。10月には日本海軍の軍艦「比叡」と「金剛」が品川港を出港して神戸でトルコ海軍の乗組員69名を乗せてトルコ国へ向かった。
翌年の1891年1月2日にオスマン帝国の首都イスタンブールに送り届けました。トルコ国内ではこの遭難事故は衝撃が大きかったのですが、天災による遭難として報道されました。
また遠く異国の日本人が救助に当たり、また日本の政府の尽力なども合わせて報道されたためにトルコ国内では日本国と日本人に対して大いに好感を持つようになったと言います。
山田虎次郎のこと
山田寅次郎のことは日本では余り知られていません。彼は募金活動を行いエルトゥールル号遭難者の遺族の為に集めた義援金を持ってイスタンブールに渡りました。トルコの人たちは彼を熱烈な歓迎で迎え、皇帝アブデュルハミト2世に拝謁する機会も与えられました。
トルコで活躍
彼はその後トルコに留まり貿易商店を開き国交のなかった日本とトルコ両国の間で民間人として交流に尽力しました。彼がトルコの士官学校で教鞭をとっていた時の生徒の中には、後のトルコ共和国の初代大統領ケマル・パシャもいました。
ロシアの南下政策
ロシアは広大な面積は持つものの冬期は積雪と凍結となり農業には不向きでしたし港湾が凍結してしまいます。ロシアは政治的経済的にもまた軍事的にも不凍港を確保すことが国家的な重要課題でした。
露土戦争は
トルコはその長い歴史の中で北の大国ロシアから圧迫を受け続けてきました。トルコとロシアは16世紀から20世紀初頭に掛けて10数回の戦争をしています。普通露土戦争と言えば18世紀の第一次、第二次露土戦争、19世紀初頭の第三次、第四次露土戦争のことを指すようですが、要するに何度もの戦争により結局オスマントルコ帝国領であったクリミヤ半島やコーカサスなどがロシア領となっています。
さらにロシアの船がクリミヤ半島の港から黒海を通り地中海に出るためには、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡を通過しなければならず、この通行権を巡りトルコとロシアが激突しています。
バルト海や東アジアでも
また露土戦争とは別にアジアではロシアの南下政策の一環として千島列島の確保やバルト海の問題がありました。また東アジアで第二の不凍港を求め旅順、大連を清国から租借しさらに満州地域の支配を目指していました。
日露戦争は
このような世界情勢の中で日露戦争は起こりました。日露戦争は満州の権益を巡る争いが原因で大日本帝国とロシア帝国との間で1904年(明治37年)2月8日に起こりました。満州南部や遼東半島の陸上部分と日本近海が主な戦場となりました。
陸上戦は
陸上戦は戦闘は8月遼陽会戦,10月沙河会戦と苦戦ながら日本が勝利したが、乃木将軍率いる第三軍は7ヵ月の苦戦のすえ二百三高地を占領し要塞砲による湾内ロシア艦隊への砲撃で陥落させた。日本軍死傷5万9000人の大きな損害を出した。
最大の陸上戦
1905年3月,日本軍25万が32万のロシア軍を奉天会戦で日露戦争最大の陸戦となり日本軍は奉天を辛うじて占領した。
日本海海戦(=対馬沖海戦)
1905年(明治38年)5月27日から5月28日にかけて、日本海軍の連合艦隊とロシア海軍の太平洋艦隊=バルチック艦隊の間で行われた海戦である。この戦いは日露戦争期間中における最大規模の艦隊決戦となったなりました。
対日戦に備え旅順、ウラジオストックでロシア太平洋艦隊の補強が十分間に合わなかった。またバルチック艦隊は本隊が喜望峰回りによる長期間の航海で将兵の疲労と燃料不足は大きかったといいます。
連合艦隊の勝利
会戦は対馬沖の日本海南西海域で行われました。連合艦隊は被害を小艦艇数隻の喪失でしたが、バルチック艦隊はその艦艇のほとんどを損失させるという海戦史上稀に見る圧倒的な勝利を収めた。この結果は和平交渉を拒否していたロシア側を講和交渉の席に着かせる契機となりました。
アジアの小国日本がヨーロッパの大国ロシアを破ったことは欧米各国にとってある種の衝撃を与えたようです。
トルコの人たちは
国際政治のことは別にしてもトルコの人たちは「これまでロシアに痛めつけられてきた歴史があるだけにアジアの小国日本がヨーロッパの大国ロシアに勝ったことを心底喜んでいます」とボーイ長は言っていました。
エルトゥールル号のこともありトルコの人たちの多くは日本に対して一層の親近感を持ったと言います。
トルコの料理は
長いアンカラ滞在中にトルコ語が話せないこともあり、ほとんどはホテルのレストランで食事をしました。日曜日など歩きながらでも下町に出かけて観光スポットを見たり食事などをしてみれば良かったなと今にしてみれば残念に思ったりしています。
アンカラはトルコのほぼ真ん中に位置して海岸から遠いので、どうしても肉主体の料理となりました。肉は主に羊と鶏肉です。野菜はなんでもありましたが筆者が好みだったのはトマトとナスでした。
ドネルケバブは日本でも知られていますが、さらにナスとケバブを組み合わせたパトリジャンケバブやナスやトマトを使った〇〇〇ケバブ、豆類を使った料理など多種多彩です。滞在中良く食べました。普通ヨーグルトやナッツを良く使います。
またキュウリのピクルスも好んで食べました。酸っぱいキュウリが何となく日本の漬物を思いだ出させて日本食が恋しくなったこともありました。
日本大使館から
そんななか在トルコ日本大使館から食事のお誘いがありました。慰労を兼ねて呼んで頂いたのだろうとただただ感謝して大使館へお伺いしました。頂いた食事は完全な日本食で白いご飯と味噌汁の味は美味しくて今でも決して忘れることは出来ません。
トルコ料理は世界三大料理の一つ言われる所以です。隣国ギリシャや中東、アフリカ北部。ヨーロッパと相互に影響し合って実に美味な料理に仕上がっています。
トルコのお酒は
料理に付き物のお酒類も豊富です。ブドウの栽培面積も大きくイスラム国でありながら飲酒に関しては寛容な国です。トルコワインは生産量はイタリアやフランスに遥かに及びませんが、結構美味しいですし他にもビールや蒸留酒である「ラク」などがあります。
ラクは隣国ギリシャにもありますのでこの地方では普通に嗜まれているのでしょうか。筆者も試してみましたが、水で薄めるときに白濁します。つい濃いラクを飲み過ぎて失敗してしまいました。まあビールを飲んでいれば失敗はないですね。
まとめ
エルトゥールル号の遭難事故は全く不幸なできごとでしたが、これを契機に日本とトルコの友情が今日まで続いています。人と人との友情はもちろん国同士の友情も時代を経ても大切にしたいものだと思います。
最後までご覧いただきまして有難うございました。この項はまだ続きます。