人の心は‐会社合併時の話ー(1)-(2023/08/02)
目次
はじめに
回想録など書いたことがないので、どのように書けば良いのか判りません。ただ筆者が生きていて実際に直面した重要な事項の一つを証拠の一つとして書き残して置きたいという強い思いがあります。
人の心は
この章を引用させて貰うと
「風も吹きあへずうつろふ、人の心の花に、馴れにし年月を思へば、あはれと聞きし言の葉ごとに忘れぬものから、我が世の外になりゆくならひこそ、亡き人の別れよりもまさりてかなしきものなれ。」皆さま良くご存じの徒然草の一章です。
登場会社などの紹介
これから書いていく内容を混乱なく判り易くするため、まず初めに登場会社、登場人物、工場立地などを紹介しておきます。
登場会社
A社(Eが入社した会社、合併後の存続会社)
B社(合併相手会社、売り上げ基準でA社のおよそ1/10程度の規模)
C社(合併前まではB社の本社的機能を持っていた。合併後8年後A社の100%子会社となる)
D社(A社、B社、C社に関係が深い大手銀行、合併時に両者に社長を派遣していた。後にメガバンクへ)
E(筆者)
誠に申し訳け有りませんが、役職名は省略させて頂きます。
合併条件
詳しい条件など知り得る立場にはなかったので良く判らない。ただ対等合併だとの噂が流れた。当時B社は苦しい経営状況にあった。従って実質的にはこの合併は救済合併か吸収合併ではなかったかと思った。
A社とB社の合併は1975年、C社は1983年にA社の100%子会社として分離された。つまりC社は1975年から1983年の間はA社の一工場と言う立場であった。B社の人にとってB社社長がA社社長にならなかったことに不満が残ったと思われる。
B社の人は対等合併で得られるものは一体何があるのか注目していたと想像される。対等合併であったので、すべての労働条件はA社とほぼ同じとなった。
A社もB社も社長はD社の出身者でD社の立場で考えれば、赤字会社の面倒は銀行が直接診るのではなく、どこかの都合の良い会社に押し付けて診させるのが常であると思った。
合併後のA社の社長問題
合併話が出ている頃はA社の社長、会長の健康が必ずしも万全でなかったと見られていた。従って合併後のA社の社長には当然B社の社長がなるとの話が流れた。
対等合併ではあるしB社の人にとっては合併後のA社の社長になるものと思ったに違いない。A社の人にとってはB社の社長がなることには恐らく納得がいかない人が多かったようです。
A社の生え抜きK社長
結局はA社の社長の後にはD社から新たに派遣された。豪快で暖かい感じがして皆が好感を持っていました。残念ながらA社社長在任期間は短く病気で急逝された。この後の社長はA社生え抜きのKが社長を務めることとなった。
工場立地
A社はG県とH県に大きな無機有機化学品と石油化学コンビナートを持っていた。大手企業の一角を占めるまでになっていた。
B社は北部地方に小さな工場を幾つか持っていた。営業的には苦しい状況で実質赤字経営を継続しており存続が危ぶまれる状況でなかったかと個人的には想像していた。
A社の要求
A社が合併にに伴い特に必要とと思ったのは、B社が持つPVC(塩化ビニル誘導品)であった。A社はG県、H県の大型の設備で大量生産していた。従って大量の製品を消費するPVCが必要であった。
B社の人の不満
(1)B社の社長A社の社長になれなかったこと
(2)PVCの技術は持っていかれたこと
(3)A社からの見合う技術の提供はなかったこと
などかな。
A社は合併が決まった直後にはH県に合併と同時に、G県には合併後B社のPVC技術で大型設備をG県の工場に建設した。一方A社はC社に対して何を提供したのだろうか。C社が赤字でも永遠に経営を診るということだったのだろうか。
少し時間がたったので
合併前後に現役で活躍されていた人の多くの方は今では故人となられています。ご冥福をお祈り致します。入社以来Eに親切にいろいろ教授して頂いた先輩の方々に感謝した居るところです。
現場育ち
Eは入社後現場配属となり、以後この現場と別の石油化学部門の現場と東京の企画部門を2往復しました。次には東京の生産管理部門に配属されました。この時は既にB社との合併後の話となります。
この部門はA社の中枢部門の一つで,ここの責任者はQ常務(B社出身)で合併後のA社の全体を見渡せる部署でした。筆者はこの部門では必ずしも歓迎されてはいように感じた。
人間ですから当然好き嫌いはあるし、相性もあります。Qの行動は後から思えば、ピンポイント攻撃の始まりではなかったかと。
表面上は対等合併となりましたが、この辺りの事情は全く承知していないが、恐らく銀行側の意向が働いたのではないかと推測しています。
合併は1975年(昭和50年)に対等合併として行われた。8年後の1983年(昭和58年)に分離独立してA社の100%の子会社C社になっている。
C社の事業は
C社は北部地方に立地して工場を持ちその誘導製品それに太平洋側などの工場で肥料など製造販売していた。しかし販売市場が小さく,従って小さい生産規模では存続が難しい状況でした。高い売電による操業から脱却すべく自家発電設備を設置しているところでした。
Eの直感は
Eの判断はコスト競争力のない小さな設備と発生する製品を消費する下流製品を設備を作っても黒字化する設備にはなり得ないのではないかと思ったことでした。
つまりこのような対応ではいつまでたっても正解は得られないのでないかと。後で触れますが、50年近く立った最近の決算はどうなっていると思いますか?
C社へ出向
工場整備にA社側の協力がどの程度あったか全く知らない状況でした。工場長が病気で急逝されたので後任として急な派遣でした。
Eにとってこの工場が最終職場になるのかと思うと悲しくなり辞表を書いた。ただ直ぐに再就職先がないにで一旦は懐にしまった。(つづく)。
参考記事
(1)【2022年最新】合併企業一覧19選!成功事例・失敗事例も紹介
会社合併に関する専門家による参考文献は数多く紹介されていますので、そちらを参考にして下さい。
まとめ
- Eが体験した実例を書いています。この項は何回かつづきます。
最後までご覧いただき有難うございます。